虚影庵「桜月集」感想

sakura

美しさと醜さ、老いと若さ、私とあなた、そんな抗えないものたちへのここちよい無力感。
床に落としたままの時計はあるべきところにちゃんと戻して、雪が降ったら全て忘れて。

 

短編集の楽しみ方は少なくとも2通りある。
一つの話を読み終えたら本を置き、夜でも構わず窓を開け放って余韻を吹き飛ばし、読んだものを記憶の奥底にある書庫にすっかり仕舞い込んだ後で次の話にとりかかる方法と、前の話の味がまだ舌の上に残っているうちに次の作品に取り掛かり、そのまま一気に最後まで突っ走る方法だ。
「桜月集」にはどちらの方法が適当か。僕は後者ではないかと思う。三年間に渡る作者の試行錯誤にいちいち驚きながらも、透明な水彩絵の具を塗り重ねるようにして、自分の頭の中に複雑な色が出来上がっていく過程を楽しんでもらいたい。

ポップな「たびわに」や、キャラクターの際立つ「国立博物館別館」、ラストを飾る「鎮守櫻」に心を奪われるけれど、それらは全て、幕開けの「月を紡ぐ」がこしらえたステージの上で輝いているようにも思う。

次の桜が咲く前に、ぜひご一読を。

虚影庵「桜月集」
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僕らと彼らのルールブック

卯太と皐と節分おばけ

卯太と皐と節分おばけ

吉野朔実の「いたいけな瞳」だったと思うのだけど、
珈琲屋の看板に書かれていた「モカマタリ」という言葉を怖がる少年の話があった。
何だか得体が知れなくて怖い、と言うのだ。
子供の頃の恐怖って、実際そんな感触のものが多かったような気がする。

床屋で目をつむってシェービングクリームを塗られている男が怖かったり、
ねじれた形をしたマカロニが怖かったり、
テープレコーダーに書かれたドルビーマークが怖かったり、
ひいおじいさん(小さいおじいさんと呼ばれていた)の名前の漢字(丑之助)が怖かったり。

前述のモカマタリでは、家政婦のシラタマさんが、少年を連れて喫茶店に入り、モカマタリを注文し、「正体を知れば怖くない」ということを少年に教える。
実際、多くの臆病者がそうやって手さぐりで生き抜いてきているのだ。
何とも涙ぐましい。

 

河内愛里さんの「卯太と皐と節分おばけ」には、妖・怪異の決まり(ルール)を知っている子供・卯太と、知らない子供・皐が出てくる。
怯えて泣くのは皐だ。
決まりを守れば大丈夫だと卯太は言う。破れば危ない目にも遭う。

面白いことに、決まりを守っているのはヒトの方だけではなく、どうやら妖・怪異の方も同様に守っている。
彼らからしたら、そんなものはいつでも敗れるのかも知れないけれど、守っている。
となると、そもそもこれらの決まりは、一体どちらが先に言い出したことだろうか、などと詮索したくもなる。
こんなことを書くと、身近にいる彼らの機嫌を損ねてしまうかも知れないのでとても怖いのだけれど…
最初に「怖い」と泣いた臆病者はどちらなのか?

「卯太と皐と節分おばけ」に収められているのは2作品からは、彼らに対する作者なりの手さぐりが感じられる。
その感触は、あなたが自分の周囲にいる彼らに気付く時にもきっと役にたつはずだ。
臆病者の端くれとして、それだけは保証しよう。

 

卯太と皐と節分おばけ(河内愛里)
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誰かの巻いたゼンマイが規則正しく進めるドラマ

操り人間と発条ネコ

操り人間と発条ネコ

よほどの猫アレルギーでもない限り、猫の発条(ゼンマイ)を巻いたことのないヒトなどいないだろう。
当たり前過ぎて、巻いている自覚すらないかも知れないから、念のため説明しておくと、朝顔の双葉のような取っ手をギリギリと回すようなイメージを頭に思い描くのはよろしくない、チョロQがいい。後ろにグイッと引くと発条が巻かれるアレだ。
最近の世代にチョロQはなじみがないだろうけれど、セグウェイも同じ原理じゃないかと思う。詳しくは知らないが。

ひなたやソファの上で寝ている猫をそっと(乱暴になでると発条が切れる)なでれば、すぐに発条は巻かれる。
きみは猫が立ち止まるまでいそいそとついていかねばならない。

操り人間についても、同様になじみが深いことと思う。
器用不器用に関わらず、誰でも一度や二度は操ってみたことがあるだろう。
操り人間と言うのは、猫に負けないくらい、世の中のそこかしこにうごめいているものだからだ。
もし、きみが、いや、まさかとは思うが、操り人間を操った記憶など無いと言うなら、きみは操り…よそう、そんな馬鹿なことがあるわけがない。

発条猫と操り人間の関係については、正直なところ僕にはよく分からない。
それは多分、当事者ではないからだろう。
発条猫にも操り人間にも分からないのかも知れないが、
どうして分からないのかくらいは分かりそうなものだし、
少なくとも、分かる必要があるのかどうかは分かるんじゃないかと思う。
僕らに分かるのは、社会的にはそれで十分だということくらいだ。

操り人間の歩みは遅い。
発条猫の歩みは速いはずだが、おそらくすぐに発条が切れてしまうのだろう。寄り道も多いのに違いない。
歩みの違う両者が、たまたま同じ時代を歩いた。
そこに事件性は何もない。単純明快な事実の経緯があるだけである。
だけど発条猫の名前が「キンキュウジタイ」じゃないかときみは言うかも知れないが、
だったらきみの名前は何なんだ?

 

…と、こんな駄文を勢いで書きたくなるような傑作なので、
ぜひ読んだら良いと思う。

操り人間と発条ネコ(五十嵐彪太)
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表情たちの住むところ

デジタルリマスター短篇マンガ集「チーズケーキ」

デジタルリマスター短篇マンガ集「チーズケーキ」

世の中にはいわゆる「美形」の人もいるけれど、
実際のところ、ヒトに良い印象を与えるかどうかなんて、
造形よりも表情によるところが大きいと常々感じている。
良く見るとブサイクなロックスターが、演奏中に輝いて見えたりするのは多分そのせいだ。

たとえ時折でも良い表情をするヒトの周りには、ヒトが集まるし、
卑屈な表情の前では足早にもなる。
それは多分、表情が他者に気持ちを伝える手段であるからだろう。
言葉のいらないコミュニケーションが、そこでは自動的に成立している。

デジタルリマスター短篇マンガ集「チーズケーキ」を読んで驚かされるのは、
破天荒な物語の流暢さとか、ほんの一言でその場のにおいを変える台詞はもちろんなのだけど、
何よりも登場人物の表情の豊かさがすごい。

彼の他の作品が表情が乏しいということはないのに、
とにかくいつも以上に笑うし、怒るし、焦るし、呆れるし、困るし、喜ぶし、訝しむし、ガッカリするし、覚悟もする。
特に「おばけプリン」や「川でスケート」あたりの、くるくると変わるネテールちゃんの表情には、ほとんど翻弄されるくらいで、
この連載がこのまま続いていたら、一体どんな傑作が生まれただろうかと思うと口惜しくも感じる。

「夢見るネテールちゃん」以外にも、「セーター着せたくならない?」「春のおんがく」「田園の憂鬱」が収録されていて、
そのいずれも読んでいるこちらの表情まで変わってしまうくらいのパワーがあるから、
読んでいるあなたを通じて、周りにいる他の誰かにまで表情が伝染してしまうんじゃないかと思う。
ひょっとしたら、ヒソヒソと不気味がられるかも知れないけれど、
それは、まあ、あなたの表情の技術が拙いということだから今後の努力に期待しよう。頑張れ。

それにしても、こういう表情豊かな人物たちが、
コジマケンの中にいたというのは何だか意外で、
彼らはきっと今もまだコジマケンの中にいて、
僕らにはあずかり知らぬ広大な世界で、
僕らのまだ読んでいない物語に住んでいるのだと思うと、
今後のコジマケンからますます目が離せなくて仕事が手につかなくて困るので、
どんどん書いて下さい。
待ってます。

 

デジタルリマスター短篇マンガ集「チーズケーキ」
http://store.retro-biz.com/page_detail_1503.html

妖怪を見る前に、そして妖怪を見た後で

もののけ日記 後輩書記とセンパイ会計、不滅の陶器に挑む

もののけ日記 後輩書記とセンパイ会計、不滅の陶器に挑む

坂口安吾が随筆「冬の怪談」の中で、「怪談というものの真打は幽霊で、キツネ、タヌキ、雪女等の妖怪変化の類は前座にすぎない。」と書いている。その本意は、人の怨念をまとった幽霊に比べたら妖怪たちなんて愛嬌があってかわゆいものだ、ということだと思うのだけど、そのへんをちょいと見て見ぬふりしてあえて文字通りに解釈してしまえば、「幽霊が登場する前に、まず妖怪が登場する」となる。武道館でビートルズの前にドリフターズが演奏したのと同じアレだ。

さらに、「現代は怪談を通り越して、幽霊妖怪の実在する時代である。」ともあるから、これはもう怪談に限らず世間一般の法則について語ったものと理解しちゃっていいんじゃないか。つまり僕らは、日常生活の現実の昼下がりに妖怪を見たら、日が暮れる前には幽霊も見ることになるのだ。この一連の流れは避けられないものなので、妖怪はともかく幽霊はちょっと…と思われる向きもあるだろうけど、覚悟してもらう以外にない。

むしろ妖怪によって事前にイベント告知してもらえることに感謝した方が良くて、間違っても、妖怪のせいで幽霊に…などと逆恨みをしてはいけないと思う。あくまでビートルズが来ると決まったからドリフターズが武道館に呼ばれたのであって、その逆ではないのだからね。

シリーズ2作目となる「もののけ日記 後輩書記とセンパイ会計、不滅の陶器に挑む」では、1作目と同様、学生生活の中でふみちゃんが妖怪らしきものを見る。それが妖怪であるとは明言されていない。ふみちゃん以外の誰にも見えていない上に彼女の説明は雑だし、仮に妖怪だとするならば、その後のふみちゃんは幽霊に会うことになるのだけれど、そういう記述は一切ない。

だけど、ふみちゃんのようには見ることのできない数井くんの注意さえひきつけるその「くすぐり」の技は、まさに腕利きの前座のそれに違いないし、小豆を洗うなどの有名な妖怪を連想させる所作を取り入れたヒントも親切に用意されている。そこまでお膳立てしつつも妖怪じゃないとしたら何なのか?という気もする。だけど条件がそろい過ぎていると逆に怪しくもあって、ひっかけ問題じゃないか?とためらってしまうのも現代人ならまっとうな態度だとも思えてくる。

ここで、そもそもふみちゃんは本当に幽霊を見ていないのだろうか?という疑問が湧いてくる。見たとは書いてないんだから見てないんだろう…という解釈は短絡的すぎたんじゃないかと。ふみちゃんが幽霊を見たにも関わらず、作者が何らかの理由によりそれを「書かなかった」可能性もあるわけだ。あらためて眺めてみると、各話が終了した時点で、世界がリセットされるかのようにして新しい話が頭出しされる構造はずいぶんと不自然で、キルリアン写真を用いれば、そこに切断されたしっぽが映り込むような、そんな気配さえしてくる。

決定的な証拠が残されていない以上は、僕らは想像するしかないのだけど、切り捨てられた幽霊がいるとしたら、それは何だろう。安吾によればそれは実在するものだ。「現実」と言い換えても良いかもしれない。

ふみちゃんが妖怪を見たのだとすれば、この物語の後ろには現実があるのであり、見ていないのだとすれば現実もない。ふみちゃんが現実を見るためには、妖怪を見なくてはならないのだ。これは実に興味深い、奇妙な構造じゃないかと思う。

ふみちゃんと数井くんと、その仲間たちによるとりとめのない物語が、がけっぷちギリギリのところで現実に爪をたてているのは、この構造によるところが大きい。幽霊を見たいとは思わない。だけど、妖怪なら少し見てみたい。そんなわがままな僕らは、ほんの少しの幽霊のリスクを背負いつつ、妖怪を見る手触りのようなものを、ほどよく雑な説明で教わるのだ。

 

「もののけ日記 後輩書記とセンパイ会計、不滅の陶器に挑む」(青砥十)
第1作「もののけ日記 後輩書記とセンパイ会計、不浄の美脚に挑む」も近日再入荷予定

 

断崖に向かってアクセルを踏みこむのは誰か

fillies

fillies

 

文章のスピード感について語ろうとすると、そのアクセルを踏んでいるのは読者か作者かという難問に直面する。
早く読むのもゆっくり読むのも結局のところ読者次第じゃないか…なんてのはトップスピードの文章に恐怖を覚えたことのない輩の台詞だ。
呼吸をする余裕すらなく悲鳴を上げるしかなく、ブレーキを探しても見つからないあのスピードは焼印のように脳に残る。

ではアクセルに乗っているのは作者の足か、と言うと、そう言い切るのは難しい。
小説には、楽譜のようにテンポを指示する記号を書き入れないのが普通だし、作品が作者の手から離れたら、足からも離れるのが自然の理、もしくは社会人の行儀というものだ。

スピード感に定評のあるSFサイバーパンク作家のルーディ・ラッカーは、サイバーパンクについて、「たくさんの情報を盛りこみ、コンピュータ革命から生まれた新しい思考形態について語る、読みやすく洗練されたSF」と語ったそうだが、私はそれを初めて聞いた時に、「読みやすく」という部分をひどく意外に思った。彼の小説を、読みやすいと感じたことはなかったからだ。
しかし、考えてみれば当たり前のことで、読みにくい文章であったらスピードを出すことなんてできるわけがない。私がルーディ・ラッカーの文章を「読みやすい」と感じなかったのは、読みやすさを帳消しにするほどのスピードで、読んでいたからなのだろう。
(訳者が下手だったという可能性もあるが、その可能性にはここでは触れない。)

ついアクセルを踏みこんでしまう道と言うのがある。
道が広く、見通しがよく、交差点がなく、警察官がいなくて、ジャスコまで120キロと書いてあるような、ああいう道だ。
おそらく作者にできることと言うのは、そういう道を整備することだけなのではないか。
そして、そういう道に入り込んだ読者は、作者の思うがままにアクセルを踏み込まされるのだ。

この作者と読者の関係は、競馬における馬と騎手の関係にも似ている。
スピードの決め手となるのはサラブレットか、それとも騎手か。
そのスピードを誰より楽しんでいるのは?と問えば答えは明白かも知れないが、
「それは私です」と手を挙げるのが、馬券を買った一般人だったりもするので、
つくづくスピード感とは、人それぞれ相対的なものであると、感じ入ったりもするのである。

 

あなたのスピード感を確かめる触媒(もしくは馬券)として、氷砂糖さんのfilliesをオススメします。

・fillies(氷砂糖)

竜崎さんの「もしも童話シリーズ」

人魚に恋した魔法使い

人魚に恋した魔法使い

偽悪主義な狼さんと赤ずきんだったおばあさん

偽悪主義な狼さんと赤ずきんだったおばあさん

 

読書体験に純粋さを求めるならば、そこには自分の意識と本だけしか存在しないのが理想なのだろうけれど、現実には、ページをめくるたびに親指の深爪が気になったり、隣の席で大笑いしている女子高生の会話が妙に心に響いたり、初めて訪れた町に高揚していたり、待ち合わせの時間を30分も過ぎている恋人にイライラをつのらせていたり、ゴハンよー…と呼ばれたり、夏休みに突入した幸せでついつい顔がほころんだり、寒かったり暑かったり雨に濡れたりおなかが空いてたり、そんな幾多のトッピングを振りかけて、余計な色をつけながらでないと読めないことがほとんどだ。読書体験はいつも不純だ、と言ってもいい。

竜崎さんの「もしも童話シリーズ」を読んでいると何かいけないことをしているような気持ちになるのは、そういう読書体験の不純さを助長する何かが、行間に潜んでいるからだろう。例えて言うならば、放課後の誰もいない教室で、教壇のそばに落ちていたノートを拾って開いてみたら、シャープペンの薄い文字で小説が書かれていて、廊下の足音に耳を立てつつ文字から目を離せなくなるような、そんな体験だ。

中学時代にそういう思い出があるのかい?と問われると、いや、全く、と答えるしかないのだけれど、人間の記憶のメカニズムなんてずいぶんと杜撰なものらしいから、竜崎さんの作品を読んでしばらくすると、実際にそういう過去があったような書き換えが行われることだってあるかも知れない。

とにかく私は、この読書の途中で幾度となく、周囲の人の気配を探らずにいられなかったのであり、それはずいぶんと懐かしく、不純な時間であったのだ。

 

・竜崎飛鳥さんの作品一覧

ナカニシさんのまだ始まっていない世界とJ

Jの世界

Jの世界

世界と言うのはつまり…
しょっちゅう終わったり始まったりしているわりには終わりも始まりも見た者は誰もいないというアレで、どこが果てだか中心だかは、ほとんど言った者勝ちだとされている。

数学者によれば、
果てと中心の両方を特定できれば、世界の全体を表す数式を導けるとのことだが、
現在のところ、その試みはまるで成果が上がっていない。
どちらか一方を特定すると、もう一方が曖昧になるという不確定性原理が働いているから…というわけではなく、
一般に、世界の果ての存在を確信する者は世界の中心に意識が向かず、
世界の中心に興味がある者は、世界の果てをファンタジーだと思う傾向があるかららしい。

真偽はともかく、世界の成り立ちを考える上で、
この傾向は一考の価値があると言えるだろう。

「Jの世界」と名付けられたこの世界は、一冊の本となっている。
印刷された紙の本であり、有限な存在だ。
ここに世界の全てが収まっているとすれば、
この本の輪郭は「世界の果て」であると言える。

逆に、この本が「世界の中心」であるとすれば、
この本の輪郭は、世界の果てを意味するものではなく、
あくまで本として物質としての限界に過ぎず、
Jの世界の果ては無限に広がっていると考えられる。

はたして正解はどちらか?

どっちでもないかも知んないね…と思えたら、いいぞ、その調子で行こう。
Jの世界もナカニシミエの世界も、まだ始まったばかりで、
その先には、まだ始まっていない世界も控えている。

世界の始まる瞬間を目撃できるかどうかは分からないけど、
Jの世界がどんな世界だったのか分かるのは、それよりきっとずっと先だ。

 

ナカニシミエ・本 Jの世界
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ところで、ナカニシミエさんが挿絵を担当した本が25日に発売されます。
https://twitter.com/nm4j/status/216090579006783488

ぜひお近くの本屋で探してみて下さい。

ヌバタマの(抄)~ネコを研究するヒトへ

ヌバタマ

ヌバタマの(抄)

猫が大好きという人は世に少なくなくて、
それが猫側の努力によるものか、それとも人側の何らかの過失(愛情の余剰など)によるものなのかは、
今後の研究が待たれるところであるが、
ひょっとするとこの本は、意欲ある若き研究者に確かな道を指し示すものとなるかも知れない。

この本は、いわゆる「猫好き」が手に取るものではない。
仕事を終えて駅からの長い道のりをいつものように歩いて自宅の玄関を開けた時、
廊下の奥の方で立ち去りつつある飼い猫の後ろ姿を見て、
「そういえばどうしてお前はここにいるんだろう?」と思うような人が、
食卓に置かれた新聞を開くような手つきで、読む本である。

なぜならば、ここには猫好きを魅了する猫の「魅力」については、
ほとんど何も書かれていない。

そして、この本を構成する23本の文章は、書かれた日時もそれぞれバラバラで、
その手触りも、何か一つのはっきりとしたものを掘り進めるようなものではない。
かといって、あいつら(猫)の身体のように、のらりくらりとしているわけでもない。

これは猫の本ではないのだ。

「待って下さい。この本の帯には、しっぱを切られた黒猫『ヌバタマ』と黒猫のしっぽを切った少女『キナリ』の23の小さな出来事…と書いてありますよ。」
「表紙には猫の目の細工もされてますしねえ、凝ってますねえ…」
「それなのに猫じゃない?」
「まあ、その、無果汁ってわけでもないでしょうけどね。パーセンテージで言えば…」
「ごまかさないで下さい。看板に偽りありだと認めるんですね?」
「いや、ほら、認めるとか認めないとか、そういう杓子定規な話はよしましょうよ。だって…」
「なんです?」
「…猫かなあって。」
「え?」
「猫かなあって思っちゃったことが、あったような気がするんですよ。」
「いつです?」
「もうよしましょうよ、そんな細かいことは…」
「逃げないで、思い出して下さい。それはいつなんですか?」

もちろん思い出せるようなものじゃない。
だけど、そんな瞬間があったような気がしてならない。
そのひっかかりこそが、この本の要であり、この本が猫たる理由だ。

いわば、猫を彫ろうとして彫った彫刻ではないのである。
何かの作業の途中が、あるいは工房の床から拾い上げた破片が、
一瞬、猫のように見える。
あれ?これってひょっとして猫だったのか?
そう思った次の瞬間には、もう猫では無くなっていて、
「猫だったかも知れない」記憶だけが残っている。

あるいは、猫の彫刻を彫り進めていたのだとしたら、
その過程で削り落とされた欠片だけがこの本に収められている、
と解釈しても良いかも知れない。
この本に収められたものは猫ではないが、
「猫でない」ものを並べることで、「猫である」部分の輪郭がうっすらと見えてくる。
これはそういう本なのだ。

肝心要の大事は果たして「猫でない」部分なのか、それとも「猫である」部分なのか。
それは読者側の解釈にゆだねられている。
この関係はそのまま「猫と人の関係」の縮図でもあり、
この本が若い研究者たちに道を指し示すだろうと私が確信するのもそのためだ。

ヌバタマの(抄)
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後輩書記とセンパイ会計のエンドレスリピート

後輩書記とセンパイ会計、不浄の美脚に挑む

後輩書記とセンパイ会計、不浄の美脚に挑む

表題作を含むシリーズ6本は、
後輩書記とセンパイ会計の関係が「別に進展はない」まま続く。
だけど、常に2人はちょっと良い感じなのだ。うらやましい。

相手がこっちのことを思ってくれているかも…というくらいの関係って、
当事者にとってはほとんど問答無用に楽しいんじゃないかと思う。
いや、このへんは恋愛観に個人差もあるだろうし、
あくまで自分の経験に照らし合わせてみると単なる勘違いで終わったことも多いから、
胸が痛いところもあるし、何だか気持ちが嘘のように重くなってきたのだけど、
まあ、そんな話はおいておいて、
この物語を読み進める読者の多くは、
後輩書記とセンパイ会計の延々と続く幸せに頬を緩めてしまうはずだ。

そんな「変化しない」2人の物語の舞台が、
進級や卒業のある中学校生活であることは、
お約束事でもあり、何とも強力な魔法でもあるなあと思う。

「変化しない」ということは、永遠の必要条件みたいなところがあって、
例えば2人が出会って付き合って結婚して子供を作って…などと展開してしまうと、
どこかに確実に「終わり」があることを、予感せざるをえなくなってくる。
それは、作者が「終わり」を書かなければ大丈夫というものでもなくて、
それまでの物語の展開が、ある種のベクトルとなってしまうから、
「終わり」の位置がある程度は確定されてしまう。
そうでなくとも、2人はいずれ死ぬ。それがハッピーエンドかどうかはともかくとしてね。

そういう宿命から逃れるようにして「変化しない」を選んだ物語は、
楽しい時間がいつまでも続く理想郷でもあり、
同じことが際限なく繰り返される悪夢のようでもあり、
美形で異形だ。
それゆえにポップだと思う。
ディズニーランドのようだと言ってもいいんじゃないかなあ。
作者本人は喜ばないかもしれないけれど。

お客様を楽しませるためなら一切の努力を厭わないのがポップの真骨頂。
作者はこの物語に数々の創意工夫を組み込んでいて、
お約束に終始したものから感心させられるものまで、なかなか興味深い。
読者と一緒に、さらに進化する(だけど変化しない)可能性を秘めた楽しみなシリーズだ。

 

なお、シリーズ以外の作品も3本収録されているのだけど、
ここで同じ文脈で語ってしまうのは、あまりに強引すぎる気がしたので、
またいずれ別の機会に書ければと思うよ。あしからず。

 

後輩書記とセンパイ会計、不浄の美脚に挑む
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