ヌバタマの(抄)~ネコを研究するヒトへ

ヌバタマ

ヌバタマの(抄)

猫が大好きという人は世に少なくなくて、
それが猫側の努力によるものか、それとも人側の何らかの過失(愛情の余剰など)によるものなのかは、
今後の研究が待たれるところであるが、
ひょっとするとこの本は、意欲ある若き研究者に確かな道を指し示すものとなるかも知れない。

この本は、いわゆる「猫好き」が手に取るものではない。
仕事を終えて駅からの長い道のりをいつものように歩いて自宅の玄関を開けた時、
廊下の奥の方で立ち去りつつある飼い猫の後ろ姿を見て、
「そういえばどうしてお前はここにいるんだろう?」と思うような人が、
食卓に置かれた新聞を開くような手つきで、読む本である。

なぜならば、ここには猫好きを魅了する猫の「魅力」については、
ほとんど何も書かれていない。

そして、この本を構成する23本の文章は、書かれた日時もそれぞれバラバラで、
その手触りも、何か一つのはっきりとしたものを掘り進めるようなものではない。
かといって、あいつら(猫)の身体のように、のらりくらりとしているわけでもない。

これは猫の本ではないのだ。

「待って下さい。この本の帯には、しっぱを切られた黒猫『ヌバタマ』と黒猫のしっぽを切った少女『キナリ』の23の小さな出来事…と書いてありますよ。」
「表紙には猫の目の細工もされてますしねえ、凝ってますねえ…」
「それなのに猫じゃない?」
「まあ、その、無果汁ってわけでもないでしょうけどね。パーセンテージで言えば…」
「ごまかさないで下さい。看板に偽りありだと認めるんですね?」
「いや、ほら、認めるとか認めないとか、そういう杓子定規な話はよしましょうよ。だって…」
「なんです?」
「…猫かなあって。」
「え?」
「猫かなあって思っちゃったことが、あったような気がするんですよ。」
「いつです?」
「もうよしましょうよ、そんな細かいことは…」
「逃げないで、思い出して下さい。それはいつなんですか?」

もちろん思い出せるようなものじゃない。
だけど、そんな瞬間があったような気がしてならない。
そのひっかかりこそが、この本の要であり、この本が猫たる理由だ。

いわば、猫を彫ろうとして彫った彫刻ではないのである。
何かの作業の途中が、あるいは工房の床から拾い上げた破片が、
一瞬、猫のように見える。
あれ?これってひょっとして猫だったのか?
そう思った次の瞬間には、もう猫では無くなっていて、
「猫だったかも知れない」記憶だけが残っている。

あるいは、猫の彫刻を彫り進めていたのだとしたら、
その過程で削り落とされた欠片だけがこの本に収められている、
と解釈しても良いかも知れない。
この本に収められたものは猫ではないが、
「猫でない」ものを並べることで、「猫である」部分の輪郭がうっすらと見えてくる。
これはそういう本なのだ。

肝心要の大事は果たして「猫でない」部分なのか、それとも「猫である」部分なのか。
それは読者側の解釈にゆだねられている。
この関係はそのまま「猫と人の関係」の縮図でもあり、
この本が若い研究者たちに道を指し示すだろうと私が確信するのもそのためだ。

ヌバタマの(抄)
http://store.retro-biz.com/page_detail_1021.html

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