妖怪を見る前に、そして妖怪を見た後で

もののけ日記 後輩書記とセンパイ会計、不滅の陶器に挑む

もののけ日記 後輩書記とセンパイ会計、不滅の陶器に挑む

坂口安吾が随筆「冬の怪談」の中で、「怪談というものの真打は幽霊で、キツネ、タヌキ、雪女等の妖怪変化の類は前座にすぎない。」と書いている。その本意は、人の怨念をまとった幽霊に比べたら妖怪たちなんて愛嬌があってかわゆいものだ、ということだと思うのだけど、そのへんをちょいと見て見ぬふりしてあえて文字通りに解釈してしまえば、「幽霊が登場する前に、まず妖怪が登場する」となる。武道館でビートルズの前にドリフターズが演奏したのと同じアレだ。

さらに、「現代は怪談を通り越して、幽霊妖怪の実在する時代である。」ともあるから、これはもう怪談に限らず世間一般の法則について語ったものと理解しちゃっていいんじゃないか。つまり僕らは、日常生活の現実の昼下がりに妖怪を見たら、日が暮れる前には幽霊も見ることになるのだ。この一連の流れは避けられないものなので、妖怪はともかく幽霊はちょっと…と思われる向きもあるだろうけど、覚悟してもらう以外にない。

むしろ妖怪によって事前にイベント告知してもらえることに感謝した方が良くて、間違っても、妖怪のせいで幽霊に…などと逆恨みをしてはいけないと思う。あくまでビートルズが来ると決まったからドリフターズが武道館に呼ばれたのであって、その逆ではないのだからね。

シリーズ2作目となる「もののけ日記 後輩書記とセンパイ会計、不滅の陶器に挑む」では、1作目と同様、学生生活の中でふみちゃんが妖怪らしきものを見る。それが妖怪であるとは明言されていない。ふみちゃん以外の誰にも見えていない上に彼女の説明は雑だし、仮に妖怪だとするならば、その後のふみちゃんは幽霊に会うことになるのだけれど、そういう記述は一切ない。

だけど、ふみちゃんのようには見ることのできない数井くんの注意さえひきつけるその「くすぐり」の技は、まさに腕利きの前座のそれに違いないし、小豆を洗うなどの有名な妖怪を連想させる所作を取り入れたヒントも親切に用意されている。そこまでお膳立てしつつも妖怪じゃないとしたら何なのか?という気もする。だけど条件がそろい過ぎていると逆に怪しくもあって、ひっかけ問題じゃないか?とためらってしまうのも現代人ならまっとうな態度だとも思えてくる。

ここで、そもそもふみちゃんは本当に幽霊を見ていないのだろうか?という疑問が湧いてくる。見たとは書いてないんだから見てないんだろう…という解釈は短絡的すぎたんじゃないかと。ふみちゃんが幽霊を見たにも関わらず、作者が何らかの理由によりそれを「書かなかった」可能性もあるわけだ。あらためて眺めてみると、各話が終了した時点で、世界がリセットされるかのようにして新しい話が頭出しされる構造はずいぶんと不自然で、キルリアン写真を用いれば、そこに切断されたしっぽが映り込むような、そんな気配さえしてくる。

決定的な証拠が残されていない以上は、僕らは想像するしかないのだけど、切り捨てられた幽霊がいるとしたら、それは何だろう。安吾によればそれは実在するものだ。「現実」と言い換えても良いかもしれない。

ふみちゃんが妖怪を見たのだとすれば、この物語の後ろには現実があるのであり、見ていないのだとすれば現実もない。ふみちゃんが現実を見るためには、妖怪を見なくてはならないのだ。これは実に興味深い、奇妙な構造じゃないかと思う。

ふみちゃんと数井くんと、その仲間たちによるとりとめのない物語が、がけっぷちギリギリのところで現実に爪をたてているのは、この構造によるところが大きい。幽霊を見たいとは思わない。だけど、妖怪なら少し見てみたい。そんなわがままな僕らは、ほんの少しの幽霊のリスクを背負いつつ、妖怪を見る手触りのようなものを、ほどよく雑な説明で教わるのだ。

 

「もののけ日記 後輩書記とセンパイ会計、不滅の陶器に挑む」(青砥十)
第1作「もののけ日記 後輩書記とセンパイ会計、不浄の美脚に挑む」も近日再入荷予定

 

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